『月下美人』を公開しました
約2ヶ月ぶりの公開となりました。
月に最低一本の公開をとは思っているのですが、
長引いてしまったのは2つの新しい取り組みがあったからです。
一つ目は水彩色鉛筆を使ったこと。
水彩色鉛筆という存在を知ったのはつい最近で、
以前から色のふやけた感じが出る描き方があるんだなとは思っていたものの、
やるまでには至らず、ある障がいを持った方のアートを見てその気にさせられました。
他人からの刺激に弱いんです(笑)。
そしてこれはまだ先の話ですが、
いつか油絵を描いてみたいと思っています。
もう20年くらい思い続けているのですが…
これは制作にどれくらい時間がかかるのでしょうね…
想像もつかないので、今は見ないことにしておいたほうが精神衛生上よろしいかと。。
それから新しい取り組みの二つ目は、新しい動画ソフトを導入したのです。
これがまた難敵で四苦八苦させられ…
機械やソフトには比較的強いと自負していますが、
何事も慣れるのには時間がね、必要ですわね。。
絵が意図しない方向に動いたり急に拡大縮小したり…
なんでよ〜!やめてよ〜!というのを何時間もやっとったわけです。
そんなこんなで時間を費やしてしまいましたが、
この活動を始めてから少しずつクオリティは高くなってきていると、
自分で自分を褒めながらやっとります。
今回は月下美人というタイトルで、
これは3年前、僕に起こった実話を歌にしています。
ご視聴くださると嬉しいです。
さて、みなさんは自分の母親から手紙をもらったことはありますか?
手紙じゃなくてもメモ書きでもいいですが、たいていの人は母親の書く文字を見たことがあると思います。
僕は生まれてから38年間、母の書く文字を見たことがありませんでした。
母が30歳のとき、僕が1歳半のときに、母は網膜剥離による失明をし、それ以来文字を書くことはありませんでした。
たとえ視覚障がいがあっても全盲であっても、学校の先生をしている方もいらっしゃいますので、文字を書ける人もいます。しかし母はそれをしませんでした。
僕は生まれて38年間、母の書く文字を見たことがなかったのですが、その年の冬、母から一通の手紙が届いたのです。
その手紙を手にした時、僕の頭では理解が追いつきませんでした。
まさか見えるようになったのかと、現実離れした考えも浮かんだほどです。
また、何か悪い報せなのではないかといった思いもよぎり、
自分では封を切ることができなかったので、
Andyさんにお願いしました。
そのとき僕の心臓はドキドキしていて、明らかに動揺していました。
Andyさんが封を開けると1枚の便箋が入っていて、
それに目を通した後に、書かれていたことを教えてくれました。
僕は恐る恐るその便箋を手に取り読んでみました。
初めて見る母の書いた文字。
母の文字を見てみたいという思いすらないくらい、
母が字を書かないことが当たり前だったので、
驚きを通り越して絶句でした。
拙い文字ではありましたが、
胸が熱くなり、唾をうまく飲み込めなかったのを覚えています。
母はつい先日、透析を40年続けたことを病院から表彰され、
同じ透析患者さんとそのご家族に向けてスピーチする機会がありました。
母は失明と同時期に腎臓病も患い、
二重苦の中で生活してきたのです。
そんな母を見て僕は育ってきました。
近年は名古屋に帰るたびに弱っていく母しか見ませんでしたから、
この出来事は、だんだんと自由が利かなくなってくる体があったとしても、
新しい何かを始める母のたくましさを強く感じました。
僕も負けてられないなと思ったのです。
失明したのが30歳で、この手紙を書いたのが66歳。
36年の時を経て、再び文字を書く心境はどんなものなのか、
母に尋ねてみたくなりました。
その話はまたいずれ。